会社情報 沿革
1880年代
戸田建設の創業、初代戸田利兵衛の業績
当社の歴史は、その礎を築いた初代戸田利兵衛の業績、そこに一貫して流れる味わい深い人となりを抜きに語ることはできません。
戸田利兵衛は、1852年12月、京都の工匠(大工)の四男として生れましたが、幼くして父を失い、苦難の中、宮大工の修業をつみ、30歳の時、東京・赤坂で戸田方として請負業を開始しました。時に1881年(明治14年)でした。初代戸田利兵衛は、苦難を通して磨き抜かれた人格、天衣無縫の職人気質、誠心誠意の仕事ぶり、創意工夫をこらす抜群の冴えをみせた知力、それらから得た絶対の信用をもとに、当時の法曹界の第一人者・梅謙次郎博士邸(明治33年)をはじめ新しい得意先を開拓し、当社の歴史の力強い骨格ができ上がりました。
創業期の主要工事
明治末期に普及し始めた鉄骨造、鉄筋コンクリート造は、建設業者にも大きな変化をもたらしました。また、建設工事の大型化に伴って、生産組織の変化、資本、技術面の充実が促され、企業の大型化と近代化が進みました。
当社も1908年(明治41年)、「戸田方」から「戸田組」と名称変更し、組織も幹部制を採用するなど近代化に努めました。工事の方も早くから、鉄骨造や鉄筋コンクリート造に取り組み、今なお東京・三田の高台にゴシック様式の秀麗な姿を見せている慶應義塾大学創立50周年記念図書館や村井銀行本店など近代建築史上にも残される名建築を手掛けています。ほかにも、創業期での忘れてならない工事は日英博覧会工事です。1910年ロンドンで開催された博覧会工事を受注、初代戸田利兵衛以下、組員、下職がはるばる渡航、大きな成功を収めました。
1910年代
2代戸田利兵衛へ
初代戸田利兵衛には子供がなく、当時建築界の第一人者であった中條精一郎先生に相談、1913年(大正2年)東京帝大卒の富田繁秋(2代戸田利兵衛)が選ばれ、その年12月、戸田家の養嗣子として迎えられました。
当時の代表的な工事としては、1914年に開催された大正博覧会(東京・上野)やパナマ運河開通記念としてサンフランシスコで開催されたパナマ太平洋万国博覧会での工事がありました。国内では、竣工当時はこの種最大の建築物ではじめて日本人の手で完成させたアメリカ式ビルとして話題を集めた東京海上ビルディングなどがあります。
このような順調な事業の進展の中で初代利兵衛は1920年(大正9年)7月5日69歳の生涯を閉じました。同年10月、繁秋は2代利兵衛を襲名、戸田組の新指導者の座につきました。
1920年代
関東大震災から大戦に、株式会社戸田組の設立
1923年(大正12年)の関東大震災は、建設業界に耐震構造としての本格的な鉄骨造や鉄筋コンクリート造の時代をもたらしました。
当社は震災直後、罹災者用応急住宅12万戸のうち一万戸を受け持ち、震災復興に全社一丸となって従事、その後も佐野利器博士主唱による東京の小中学校鉄筋コンクリート化にも、20数校を請け負うなど復興工事に明け暮れる一幕もありました。震災で焼失した本社社屋が1929年(昭和4年)12月には旧本店の地に鉄筋コンクリート造で完成しました。また、1924年(大正13年)にいち早く設置された横浜出張所を皮切りに、大阪(昭和11年)に支店、名古屋(昭和6年)、釜石(昭和12年)などにも出張所が開設され全国組織の総合建設業者へと成長しています。1936年(昭和11年)には戸田組は資本金200万円の株式会社になりました。
この時期の主要工事には、早稲田大学大隈講堂、震災記念堂、愛知・富山・栃木の各県庁舎、横浜税関庁舎、東京郊外鉄道井の頭線、日本製鐵釜石港突堤などがあります。一方、1937年には日中戦争が始まり、軍事色が濃くなっていきました。
終戦、事業の再興
1945年(昭和20年)8月に終戦を迎え、日本国中が荒廃してしまいましたが、いち早く国土再建に立ち上がったのは建設業でした。当社でも業務が再開され、終戦後 数年は、進駐軍関係の工事が多かったのですが資材不足、作業員不足は深刻なものでした。
そのような中、1945年11月、組織の再構築を図り、戦前からあった大阪支店の他に東北、名古屋、広島、九州の各地に支店を設置し、また、各県に営業所、出張所を設置、1948年には札幌にも支店を設立し、全国ネットワークを確立していきました。
この時期には、代々木ワシントンハイツ、金山体育館などを施工しています。
1950年代
高度成長時代、土木部の設置
1955年(昭和30年)前後になると、いわゆる高度成長時代に入り、日本経済は目ざましい発展をみせました。同時に当社も発展し、東京都庁舎(現在は都庁の新宿移転に伴い、解体され跡地に国際フォーラムが建っています)、横浜市庁舎、早稲田大学文学部校舎など著名建築物を手掛けています。
また、1956年には土木部門を新設し、名実共に総合建設業者としての組織を確立しました。建築に比べると、より実績を重視する土木工事においても当社は粘り強い努力を重ね、都営地下鉄1号線押上地下鉄、箱根バイパス天狗橋などを施工しました。
1958年には研究室も設置し、技術革新時代に対処することになりました。また超高層時代にそなえ、アメリカの大型工事の施工法、設計計画手法などを学ぶため、1962年より「国外留学」を制定、以後約10年にわたって毎年2~3名をアメリカに留学させました。
この時期のデータは何と言っても東京オリンピック(1964年開催)であり、高速道路、新幹線時代の幕開けでもあります。東京オリンピックで当社は建築においては駒沢公園整備陸上競技場を担当、また関連工事として首都高速のいくつかの工区、さらに名神(石山瀬田高架など)、東名(多摩川橋下部など)の高速道路、新幹線工事と発足後、間もない土木部門も飛躍的な事業の発展をみせています。
戸田順之助社長の就任と新八重洲ビルの竣工
1961年(昭和36年)、それまで社長であった戸田利兵衛が会長に、副社長であった戸田順之助が社長に就任しました。また、本社屋である新八重洲ビル(1期、現在TODA BUILDINGに名称変更)も同年に完成しています。続いて、1963年にはそれまでの商号「株式会社戸田組」を「戸田建設株式会社」と改めています。社歌も同年に制定されました。
1960年代
組織の変革、株式上場、万博
昭和40年代、当社では業績の進展に併せて、組織の変革を行いました。ひとつには、1965年に建築、土木、事務(後に管理)の3本部制をしき、一方では1969年に横浜支店を設立し、続いて1971年には本社から東京、関東を分離独立させました。なお、同年には当社は創業90周年を迎え、各種記念事業が行われました。
この間、1969年には、長い間待望されていた当社株式を東京証券取引所第2部に上場、その後、第1部に指定替えとなり、大阪にも上場しています。
この時期、施工法にも近代化が見られ、各種の杭工法、山留め工法、機械化施工が進みましたが、当社でも技術部門により、各種工法が開発されています。また、PCa工法も進歩をみせており、当社も千葉県・成田に工場を建設しました。
しかし、1973年(昭和48年)のオイルショックにより、それまでの高度成長時代は終わり、低経済成長、安定経済成長時代へと移り、建設業も苦難の時代を迎えました。
この時代の工事といえば、高度成長時代の象徴ともいえる日本万国博覧会工事があげられるでしょう。当社は日本建築学会「万博特別賞」を受賞したスイス館をはじめサントリー館、コダック館、などの工事を担当しました。
海外への本格的活動と四国支店の設立
1972年(昭和47年)、当社はブラジル・サンパウロ市にブラジル戸田建設、アメリカ・ニューヨーク市にアメリカ戸田建設を設立、本格的な海外事業のスタートを切りました。その後、韓国のホテルロッテの設計業務及び工事監理、ビルマ(現ミャンマー)、スリランカ、パラグアイ、ボリビア、リビアなどで工事を受注、数多くの実績を残しています。
また、本四架橋工事の始動で活気を帯びてきた四国経済をにらんで、1976年(昭和51年)1月、新たに四国支店を設立しました。
1980年代
創業 100周年
1981年(昭和56年)3月28日、2代 戸田利兵衛会長が逝去しました。2代 戸田利兵衛は、明治19年茨城県に生まれ、大正2年末に戸田家養嗣子として当社に入社、以来95歳で天寿を全うするまで、業界の地位向上、発展にも努めたものであり、生前の功を称えるべく、従四位勲二等瑞宝章が追叙されました。
また、1981年、当社は創業 100周年を迎え、筑波技術研究所建設、研修施設の建設、戸田育英会の設立、合同慰霊祭などを実施しました。
なお、当時は「建設業冬の時代」といわれ、日本経済は低成長時代でした。そこで、当社は第2世紀の発展を考え、創業 100周年記念日にTQCの導入を宣言しました。このTQC活動の結果、全員参加の品質管理、企業体質改善、社員の意識向上が図られ、現在のISO9001、14001などの活動に活かされています。
昭和50年代の代表的な工事としては、都立広尾病院、福岡市美術館、昭和女子大 人見記念講堂、歴史民俗博物館、つくば学園センタービル、京都 東急ホテル、対馬空港拡張工事などがあります。
こうした中で、1987年(昭和62年)、当社は三菱銀行(現 三菱東京UFJ銀行)の斡旋により、従来より密接な提携関係にあった島藤建設工業と合併しました。上場企業同士の合併という建設業界では前例のないケースということで世間の注目を集めましたが、合併のねらい通り、両社の人材と技術力を結集して業績の発展に寄与しました。
戸田守二社長の就任と品質日本一へ
1987年(昭和62年)12月、戸田順之助社長が会長に、戸田守二副社長が社長に就任しました。
守二社長は就任にあたり、社員に対してチャレンジ精神の発揮をよびかけました。
また、1991年(平成3年)の創立記念日には、同じ単価ならば日本一の品質を送り出す「日本一の建設会社」をと、「品質日本一」への方針を打ち出しました。
この時期には、横浜みなとみらい21の横浜国際会議場ホテル棟(コンチネンタルホテル)、早稲田会館、ツインタワー瀬戸大橋、飯田ダム、塩川ダム、JR東日本 大井町駅などを施工しています。
1990年代
千葉支店の設立、阪神・淡路大震災と神戸支店の設立
1992年(平成4年)4月、千葉市が12番目の政令都市となるのを機に、当社では、千葉支店を設立しました。
1995年1月17日、震度7の激震が神戸を襲い、6,425名が犠牲となった神戸・淡路大震災が発生しました。当社では、全社を挙げての救援・復旧支援活動を行いました。これに伴い、当社では同年3月、神戸支店を設立し、復興工事の一端を担っていきました。
ISO9001、14001 の認証取得
「品質日本一」を実現していくための品質管理面の施策として、当社は国際標準規格であるISO9001の認証取得をめざして活動し、1995年(平成7年)12月、東京支店建築部門と本社建築設計統轄部がゼネコンとしては初の認証取得をし、1997年10月には全店で認証取得をしました。また、環境問題への取り組みの一環として、ISO14001の認証取得にも挑戦し、1999年2月から12月の期間で全店取得しました。
環境保全活動としては、建設廃棄物の総排出量を減少させるとともに、2000年(平成12年)には、地球環境部を設置しました。
情報化への対応、西松建設との業務提携
現在、世の中ではIT革命といわれて久しいですが、建設業界でもパソコンの普及や2000年問題、建設CALS/ECなどに対応して情報化が進められました。当社でも1997年には情報化プロジェクトを発足させ、諸問題に対応するとともに、「TC-NET」の整備や「業界初のネットによる協力会社公募」などを行いました。
一方、1999年(平成11年)10月、当社は西松建設との業務提携を締結しました。主目的は「互譲の精神による信頼関係に基づき、両社の持つ優れた機能を活用することにより、新しい時代に臨む企業戦略の柱とする」ことにあり、当面は、技術研究施設の相互活用や共通テーマでの共同研究を中心として進めることになりました。
この時期、当社を代表する作品としては、高強度コンクリートなどの最新技術を駆使した超高層住宅の豊洲マンション、長野オリンピックのアイスホッケーB会場、当社開発の掘削機を使用した長大トンネルの金田一トンネルなどがあります。
2000年代
創業120周年と加藤久郎社長の就任
2001年(平成13年)に創業120年を迎えました。
2003年(平成15年)6月、戸田守二社長が取締役相談役に、加藤久郎副社長が社長に就任しました。
この時期には、丸の内オアゾ(丸の内北口ビルディング)、宮崎県木の花ドーム、Wコンフォートタワーズ、東海大学医学部付属病院、熊本県上津浦ダム、みなとみらい線馬車道駅、山田川ダムなどを施工しています。
井上舜三社長の就任
2007年(平成19年)6月、加藤久郎が会長に、井上舜三専務取締役が社長に就任しました。
2010年代
今井雅則社長の就任
2013年(平成25年)6月、今井雅則執行役員副社長が社長に就任しました。
戸田建設グループグローバルビジョン「"喜び"を実現する企業グループ」発表
2015年(平成27年)1月、創業140周年を迎える2021年に向けて、これからの戸田建設グループのあるべき姿を表すものとして策定しました。
首都圏土木支店の設立
2015年(平成27年)4月、2020年東京五輪の開催に向けてインフラ整備が進み、既存インフラの維持管理・更新が重要になってくる首都圏の市場性を鑑み、営業・施工の経営資源を結集し、受注・施工体制の強化を図るため当社初の土木支店を設立しました。
国際支店の設立
2019年(令和元年)9月、海外事業を強化する目的で国際支店を設立しました。
エコ・ファースト企業として業界のトップランナーを目指す
当社は、各業界をリードする環境保全の取り組みを行う企業として、2010年にエコ・ファースト企業として環境大臣より認定を受け、先進的な企業活動を行っています。
その結果、優れた気候変動対策を行う企業として世界的な評価を受け2016年、2018年、2019年の3回にわたり、CDP Climate Change A List企業として認定されました。また、2019年には事業活動に使用する電力の100%再生可能エネルギー化を推進する国際的イニシアチブ「RE100」に建設業界で初めて加盟しています。
2020年代
大谷清介社長の就任
2021年(令和3年)4月、今井雅則社長が会長に、大谷清介取締役が社長に就任しました。