戸田建設では、社員一人ひとりの希望や適性に合わせて
多様なキャリアが用意されています。
ほんの一例ですが、とある社員のキャリアストーリーをご紹介します。
M.M.
東京支店 建築企画部 企画部長
(1990年入社/工学部 建築学科卒)
高校時代は、試合で一度も相手を投げ飛ばしたことのない柔道。大学時代は、試合で一度くらいしか勝ったことのないテニスサークル。どちらもかけがえのない友と出会いました!
真面目な社風に惹かれて、戸田建設のみ志望しました。
構造的に特殊な2棟の新築工事でした。超大スパンのプレキャスト梁・張弦梁の施工計画を先輩達が実施するのを見て、技術屋の端くれとして「俺もいつかこういう計画が出来るようになりたいなぁ」と憧れの気持ちを抱きましたね。副所長が配筋要領に非常に厳しい人で、副所長の質問に答えるために必死になって勉強しました。今思えば私が配筋要領を理解していないことに対する指導で、鍛えていただき感謝しています。また、この現場では、工期が遅れそうになっていた先輩の担当工事を急きょ私が引き継ぐことに。最初は「できるわけない!」と思いましたが、作業員さんたちの協力もあり、ひたすら工事を終わらせることだけに集中してどうにか終わらせることができました。やりきる事の大切さと作業員さんとの一体感を覚えましたね。忙しい現場でしたが綺麗な建物が出来上がり、今でも時々眺めに行きます。
入社から5年目まで所属していた横浜支店では、柱や壁などの位置を示す「墨出し」の作業は作業員さんが行っていましたが、大阪支店では戸田の社員が行う慣習があり、そのおかげで図面を読み込む力が向上しました。工期中に私の結婚式と新婚旅行の予定があり、その間現場を空けることを躊躇っていたところ、それを察した所長が「結婚は基本人生で1回、現場は段取りさえしておいてくれれば何とかなるから、楽しんで来い!」と声をかけていただき、お言葉に甘えて2週間ほど休ませていただきました。建物が竣工したときに、所長から「ほんまMちゃんのおかげで現場運営がスムーズに進み、良い建物が出来たよ」とねぎらいの言葉をいただいたのは、とても嬉しかったことを覚えています。
超高層マンションの仮設工事・躯体工事、上棟後は外構工事を担当しました。直接の担当ではありませんでしたが当社のPC積層工法を見ることができ、計画・管理ポイントを学ぶことができました。竣工後は、内装等アフターケアの担当になり半年ほど常駐。エンドユーザーからは感謝されたりお小言を言われたり、入社して初めてのエンドユーザー対応で苦労はしましたが、次のマンション現場でそのノウハウが役に立ちました。この現場で出会った左官の作業員さんと何故か気が合い、8年後の初所長から4現場、左官の職長として来てくれました。ものすごく助けられましたし、色々と教えてもらいました。
スタート時は躯体工事のみを担当しましたが、途中で内装工事も担当に!実質的に工事のすべてを主担当でやることになり、初めて現場全体を自分が切り盛りしていることに快感を覚えました。工事全般を仕切ることで、工程から逆算してスケジュール管理を行うなど、先を見通す力がつき、早く作業所長をやらせてもらいたいと強く思うようになりました。ただ無我夢中でがむしゃらに仕事をしていましたが、竣工数年後、ある人に「Mさんはあの現場で一気に成長したよな」と言われました。また、この時期に人生で初めてと言って良いくらいに勉強して一級建築士を取得しました!(理想は20代ですが…)
初の作業所長(と言っても一人現場)で、事務所(と言ってもワンルームマンション)を構えたことが、自分の城を構えたようで嬉しく、会議などで出掛けてもムダに事務所に戻ったりしていましたね(誰も待っていないのに)。工事費用の交渉で社長から多少の値引きを要求されましたが、取締役の方が「Mは紳士的なので、見積金額通りに支払ってあげてほしい」と社長にお願いをしてくれたのは、とても嬉しかったですね。そのお客様には厳しくも温かく接していただき、今でもご自宅の工事などでご相談をいただく関係が続いていて、営業担当でなくともその後のお付き合いが重要であることを学びました。30代は比較的中規模以上の作業所にいたことが多かったので、一人作業所長として細かい事務仕事含め、ありとあらゆることをやらなければいけないことは大変ではありましたが、初所長の工事で、お客様に満足していただく建物を無事故無災害にて工程通りに引渡しが出来たことは、大きな自信になりました。
規模の大きさはもちろん、お客様・設計事務所様のこだわりがつまった一切妥協を許さない納まり。工事最盛期には現場事務所総勢80人の大所帯で、様々な人間関係の間に入って苦労することもありましたが、社員のチームワークの良さで無事に竣工を迎えることができました。躯体工事中に家族現場見学会(社員はもちろん作業員さんも)を開催し、それに気を良くして竣工引き渡し日の前日に開催した家族会には、社員全員が参加してくれ、両親・家族・恋人を招いて皆が得意げに現場の説明をしている姿が印象的でしたね。また、竣工2か月後にはお客様が全社員を招待して「ありがとうパーティー」を開催してくださり、美術館開館後の夜に貸し切りにて関係者200名をご招待いただいたことは、忘れられない出来事です。もはや技術屋ではなくマネジメントが業務の大部分を占めていましたが、社員にも色々な人間がいることを学び、自身のマネジメント能力を高めることができたと思います。
現場監督一筋だった会社人生から、まさかの内勤業務への異動となり作業着からスーツに!作業所の原価管理から一転、支店の経営状況を把握するというこれまでと全く異なる仕事に戸惑いながらも、今後の自身の成長のためには絶対にプラスになるはずですし、さらなるステップアップにもつながると思います。
今まで140年続いてきた戸田建設を200年、300年と続くように支えていきたいと思います。改めて振り返ってみると、入社以来、お客様・設計事務所様・社員の皆・作業員さんと、本当に人に恵まれていたと思います。自分ももっと恩返しをしなければ!と強く思っています。
H.K.
首都圏土木支店 土木技術部 課長代理
(2008年入社/工学部 都市環境デザイン工学科卒)
高校までは硬式野球に打ち込み、大学では、音楽サークルなのになぜか走り込みや朝練のある体育会系のサークルでバンド活動に夢中になりました。学生時代のバンド仲間とは今でも年に1回スタジオに入って演奏しています。
ものづくりや街づくりをしながら社会に貢献する仕事に憧れて土木の道をめざしました。戸田建設は、一人で色々な役目を兼ねながら成長できる点と、堅実な経営状況やクリーンなイメージ、そして会社説明会や現場見学会での戸田建設の先輩社員の人柄に惹かれて入社を決めました。
入社して最初に配属されたのは、仙台での地下鉄工事の現場でした。都市部の真ん中に駅を作り、そこからシールドマシンでトンネルを掘っていく。新入社員の私には分からないことだらけでしたが、戸田建設の作業服を着ている以上、現場では「現場監督」の1人として行動しなければならず、作業員さんからの質問にも答えないといけません。毎日1つずつでもいいから質問に答えられるようにして、仕事を覚えていきました。そうやって1年目ながら現場の一員として工事を進めることに責任感と充実感を強く感じました。ここでは、多様な立場、経験を持つ方との対話の中で仕事のノウハウを学びました。知らないことは恥ずかしがらずに、まずは聞いてみること。それこそが、つねに進化していく土木の世界で生きていく上で大切なことだと、今でも肝に銘じています。
入社3年目に東日本大震災が発生。私が赴任していた仙台の街も大きな被害に遭い、しばらくは仕事ができない状況が続きました。翌2012年から本格的な復旧工事が始まり、私は仙台湾での海岸工事に従事しました。まだまだ多くの方が体育館での避難生活を強いられている状況の中、山を切り開いて土地を造成し、その後ろからハウスメーカーが仮設住宅を建てていく。工事が進むごとに体育館から1家族、2家族と仮設住宅に移っていく、その時に皆様から「ありがとう」「ご苦労様」という感謝の声をいただき、自分の仕事がどれだけ大切で、人々の役に立てるかということを実感しました。入社7年目には、工事主任として岩手県の震災復興工事の現場へ。地域の安全や鉄道を守る堤防の工事を行い、大自然の脅威と地域を守ることの大変さを学びました。
入社8年目で首都圏土木支店に異動し、京葉道路と外環自動車道のジャンクション工事という大規模プロジェクトに従事しました。交通量の多い高速道路に新しい高速道路をつなぐという難関プロジェクトで、ゼネコン3社によるJV事業。私は途中から戸田建設の代表者となる主任技術者を務めました。工事をまとめるリーダーとして、年齢や経験、力量もバラバラな人の集まりの中で、いかにその人の力を引き出すか、リーダーとしての資質が問われる場面もありましたが、さまざまな分野の専門家や作業員さんと対話を重ねながら、計画の方向性を示し工事を進めていくことに大きなやりがいを感じました。また、複数の建設会社で構成するJVメンバーとして他社の現場に配属されたことで、自社との違いやより良い点を吸収するよい機会にもなりました。
入社12年目で、現場での外勤から技術部での内勤へと移りました。土木技術部は、現場での課題やトラブル解決に向けて技術的な支援を行う部署で、非常に難易度の高いプロジェクトの計画、施工、改善に力を尽くしています。本社の技術開発部門とも連携しながら、新しい技術の開発や論文の執筆にも取り組み、3Dプリンタを活用した技術では特許も取得。誰もが納得できる、確たる数値的根拠をもって業務に挑むことで自信がつき、部下の成長にも繋げることができました。
まずは、土木分野で最難関と言われる「技術士」の資格取得を目指しています。また、これまでのキャリアを振り返ってみると、自分の仕事は「ものづくり」であると同時に、「人助け」でもあると感じています。これまでは現場での工事を通じて震災の復興や交通渋滞の緩和など、スケールの大きな人助けに携わってきましたが、これからは部下や若手社員の人助けにも力を入れていきたいと考えています。その一つとして、「首都技塾」と題した教育コンテンツの制作に取り組んでおり、支店のホームページ上に社員なら誰でも閲覧できる技術解説動画をアップしています。個人的な取り組みとして始めた活動ではありますが、会社も快く応援してくれています。こうした戸田建設の自由な空気を守りながら、次の世代の若手社員を育てていければと思っています。
U.H.
東京支店 建築工事生産設計部
(2008年入社/建築学科卒)
中学生の頃から漠然と田舎から出てみたい、もっと広い世界を見てみたいという思いで、毎日の部活動や勉強を頑張っていました。高専時代は、ドラッグストア、弁当工場、ティッシュ配り、ゴルフ大会での応援スタッフ、長期休みは実家のせんべい屋の手伝いなど、多くのアルバイトに打ち込みました。働いている方々の姿を見て、働くことの厳しさ・大変さを感じ取ることができましたし、自立心が強くなった気がします。
高専時代、ゼネコン出身の講師から施工の授業を受けました。そこでゼロから建物を作り上げていく工程に興味を持ち、ゼネコン業界に入ってみたいと思いました。就職活動は、恩師から戸田建設を勧められたことや女性歓迎と募集があったことが決め手になりました。
入社3年目を過ぎた頃に、鉄筋足場を自分で計画したことが一番印象深い思い出です。そこで初めてCADの使い方を真剣に学び、図面をかいてみました。鳶職長がその図面を両手で広げて仁王立ちで実物との確認をしている後ろ姿を今でも覚えています。自分で計画したものが、実際に形になったという衝撃と嬉しさは忘れられません。今思えばそれが、現在の生産設計に進むきっかけのひとつになったのだと思います。施工現場での経験を通して精神的にも強くなれたと思います。メソメソしていても前に進まないので「よし次にいこ!」という具合に、気持ちの切り替えがうまくなりました。同じ建物をつくりあげるという共通の信念をもった人達が集まる職場環境で、厳しい状況でも、責任を背負いながら突き進んでいくタフな先輩たちの背中を見ていたことが、自分を育ててくれたのだと思います。
入社5年目で初めて一人で物件を担当し、不安やプレッシャーを感じながらも、所長をはじめ思いやりのあるチームの方々に支えられて本当に多くのことを学ぶことができました。しかし次に担当した物件では、知識や経験が未熟な私に嫌気がさしたのか、設計事務所の担当者から「担当を変えてほしい」と言われました。泣きながら夜道を帰ったことを覚えています。あの時の悔しさは一生忘れることはできませんが、時々思い出すと初心を取り戻すことができます。この出来事を乗り越えたことが、自分の中で大きく成長するきっかけになったと感じています。この頃から人をよく見るようになり、自分の意見をはっきり言えるようになりました。相手に合わせて言葉を選び、伝え方を変えながら自分の想いや考えを工夫して伝えるようになりました。また、自分がこの建物の担当だという責任感・プレッシャーを噛みしめながら、自分を甘やかさないで仕事ができるようになったと思います。自分と戦えるようになりましたし、常に自分自身に負けないという気持ちをもてるようになりました。
出産後、育休を経て時短勤務として職場復帰しました。時短勤務となったことで、これまでのように自分の納得がいくまで時間を気にせずに追究する働き方を改め、限られた時間内で、どう効率よく動き、何を優先的に処理していくのかを考えるようになりました。悩む時・検討するときは手を動かしながら考えますし、私は時短勤務だから…という理由で引き受けられない仕事がないようにしたいと思って働いています。現在、時短勤務も5年目になり、仕事に対する自分の軸がしっかりとできたと思います。自分なりの正解を信じて、信念をもって業務ができるようになりました。この正解は常に疑いつつ、更新するようにもしています。当初は限られた時間内での勤務に対して拘束されたような息苦さを感じていましたが、今では逆にそれがいい具合に引き締めになっています。自分を甘やかさないようになりました。
次のステップとして、私の役割は今まで多くの方から教わったノウハウを若手に返していくことだと思っています。明るくて、逞しい、落ち込んでもすぐ立ち上がるような、根っこから強い社員を育てていくことが目標です。この先輩の背中をみて成長したい、一緒に仕事をして楽しい!心強い!と思われる存在になりたいです。先輩後輩関係なく、困っている人がいたらすぐに気付けるアンテナを張り、忙しさを言い訳に見て見ぬふりはしないで、声をかけて助けてあげられるようになりたいです。そのためには、現場側と生産設計側の関係をもっと強化し、よりまとまりあるチームとなる架け橋ができる存在になりたいです。そして忙しくてもゆとりある振る舞いができて、距離を感じさせない人になりたいです。また今後も時短勤務の女性が増え活躍していくと思うので、不安を抱いている女性たちに少しでも働き方の工夫やアドバイスができればうれしいです。
Y.K.
本社 戦略事業推進室 国内投資開発事業部
(2015年入社/経営学部 経営学科卒)
公認会計士の資格取得に挑戦したことです。日中は大学に通い、夜は資格学校に通う日々。人生で一番勉強した時間でしたね。結果的に合格はできず資格取得を断念したことは大きな挫折でしたが、20歳のタイミングで自分の将来を真剣に考え、色々な方に相談しながら資格取得か就職活動か、進路を決断したことは、その後の糧になっています。
ゼネコンを中心に就職活動をしていましたが、同業他社の方から「戸田さんはいい会社ですよ」と言われることがありました。「ウチはいい会社だよ」と言われることはあっても、他社から「いい会社」と評価されることは他になかったため、決め手の一つとなりました。
「建築の営業をやりたい」という目標を胸に、まずは研修期間として現場の事務に配属。現場事務所の事務方として、若手ながら大きな金額を管理していく仕事にやりがいがありました。どのように会社が利益を出し成り立っているか、その原点を知ることができました。自分だけでは完結できない仕事が多く人にお願いをすることが多かったため、その人がどうすれば少しでも楽にできるか考えてお願いをする、というクセがついた気がします。建物が竣工し、実際に使用されている姿を見ると言葉にできない感動がありました。今でも現場があった最寄り駅を通過するだけで、当時の緊張感を思い出しますね。
一大支店である東京支店の総務のため、はじめは社員の多さに驚きました。必死に顔と名前を覚えようとしましたが、総務の業務柄、逆に名前と顔を覚えられることが多く、多くの社員に声を掛けられることが嬉しかったです。現場事務所に常駐していた1〜2年目とは様変わりし、オフィス内で業務をしていましたが、スタッフ部門として「どのように会社が成り立っているか」を学べました。フレックスタイム制度の導入や本社建替えに伴う仮移転等々、ある意味、会社の「大転換期」とも言える時期で、総務として、なかなかできない経験をさせていただきました。いつでも社員からの問い合わせに答えられるよう、新しい規定や運用を頭に叩き込むことが大変でしたが、当時の上長から、「総務の仕事は半分がコンプライアンス、半分がサービス」と教えられたことで、規定を盾に杓子定規にやり取りするのではなく、どうあることが会社や社員にとって良いことかを考えるようになりました。
5年目に、ゼネコンというよりもデベロッパーに近い仕事をする国内投資開発事業部へ。異動して最初の仕事は、自社でも使用する宿泊機能付き研修センターの開発でした。設計・施工も当社で行ったため、ALL戸田で一丸となって開発を進めることができました。最初は意味が分からない用語が多く、1時間の打合せの中で99%は話の意味が分からない、という経験もありましたが、実務を通じて徐々に不動産や建築の専門的な知識を習得できていると感じています。社内の様々な部署の協力を得てプロジェクトを進めていくことが多い仕事ですが、プロジェクトを通じて、社外の方とも相談し合えるような関係性を築くことができましたね。
入社来、建築の営業になりたいという目標は変わっていませんが、固定観念にとらわれず、与えてもらった環境で最大限力を発揮していきたいと考えています。